人それぞれに感じることは違うでしょうが、私が一番無駄と感じるのは、何か、それもあるはずだと思っているものを探すことです。
正直、いい歳になっても整理整頓が苦手な私なのですが、ここ10年程心がけていることがあります。それは、滅多にしないこと、例えば家電の部品交換方法、安くないレストランの予約などをしたときには、そのときのノウハウ(電話番号など)をメモすることです。
メモと言っても、携帯電話に入力することもあれば、自分のPCのwikiにメモを書き込むこともあれば、メモ帳に書くこともあり、手段は色々です。
で、結果として分かったことは、数年に一度ということに、このメモが非常に役に立つということです。数ヶ月程度に一度のことだと、メモしたことで内容が頭に残りメモを見なくても対処できるという効果があり、皮肉な事にメモを見ることはないので、メモの嬉しさをなかなか実感できません。ところが、数年に一度だと、「確かメモしたはず」までしか思い出せず、PCなどに記録したメモの内容が直接役に立ち思わずにんまりできます(笑)。
最近は、折に触れて、iPadに家にある機械のマニュアルを入れるようにしています。結構便利です。
2013年2月10日日曜日
やがて上司になるあなたへ(15):プレゼンテーションについて
報告にしても、提案にしても、今時パワーポイント等を使ったプレゼンテーションをさけることはできません。
できるなら、あまり時間をかけずに作った資料で、プレゼンテーションが成功するに越した事はありません。しかし、長い時間をかけて資料を作っても、聞き手の興味を引かないプレゼンテーションになってしまうことは多いようです。
書籍やネットには、プレゼンテーションの上達のために「能に学ぶ」、「スチーブ・ジョブスに学ぶ」とかをうたい文句にしたノウハウ本が溢れ、「具体的に」という注意書きが書かれていたりします。確かにこれらのノウハウ本に書いてあることは、プレゼンテーションの形を整える上で役に立ちます。
実は、もっと単純で本質的に重要な点があると、私は思っています。それは、プレゼンテーションでは、
◆説明をするな、主張をしろ。
ということです。
プレゼンテーションの目的は、聞き手を自分の思う通りに動かすことです。予算を獲得する、自分の提案に承認を貰う、自分の評価を高くする等等、全て聞き手に変化をもたらすことが目的です。もし、予算がすでに確保されているなら、提案が承認済みなら、自分の評価が満足のゆくものなら、プレゼンテーションは必要ありません。プレゼンテーションは、足らない予算、未承認、低い評価を、あなたがひっくり返すために行うものです。
あなたの伝えたいことは、「これに予算を付けるべきだ。」、「この提案を実行に移すべきだ。」、「自分の評価を上げるべきだ。」というあなたの主張なのです。
これに気付くと、聞き手にとって、「この予算の必要性は、…」などという言葉による説明は言い訳に聞こえることが、分かると思います。話し方が具体的であったとしても、「言い訳」は言い訳に過ぎません。
あなたの主張を相手に飲み込ませるために必要なものは、何か?
それは、証拠です。
揺るぎなく、明白で、客観的な証拠です。説明ではありません。「揺るぎなく、明白で、客観的な証拠」は、「具体的な説明」ではないかという反論があるかもしれませんが、そうした反論には、「上手な説明」はあるが、「上手な証拠」はなく、あるのは「明白な証拠」であると言えば、違いを理解してもらえると思います。
非常に露骨に言えば、プレゼンテーションとは、
(主張)私は、あなたに○○をして欲しい、
(証拠)あなたが○○することの妥当性は、××の証拠から明らかだ、
と、聞き手に伝えることなのです。この本質を押さえ、聞き手に失礼にならない程度の表現ができていれば、少々武骨なでプレゼンテーションであっても、あなたの正当性は聞き手に認めてもらえるでしょう。自分の主張さえはっきりしていれば、資料を作るには、それほど時間は必要ありません。
もっとも、プレゼンテーションの準備に時間が掛かる理由の多くは、自分の主張がはっきりしていないことです。それ故、いくら守離破などのような定型のノウハウを取り入れても、一向に聞き手に響くものにならない場合が多いのです。
繰り返します。プレゼンテーションで何より大切なことは、あなたの主張なのです。
できるなら、あまり時間をかけずに作った資料で、プレゼンテーションが成功するに越した事はありません。しかし、長い時間をかけて資料を作っても、聞き手の興味を引かないプレゼンテーションになってしまうことは多いようです。
書籍やネットには、プレゼンテーションの上達のために「能に学ぶ」、「スチーブ・ジョブスに学ぶ」とかをうたい文句にしたノウハウ本が溢れ、「具体的に」という注意書きが書かれていたりします。確かにこれらのノウハウ本に書いてあることは、プレゼンテーションの形を整える上で役に立ちます。
実は、もっと単純で本質的に重要な点があると、私は思っています。それは、プレゼンテーションでは、
◆説明をするな、主張をしろ。
ということです。
プレゼンテーションの目的は、聞き手を自分の思う通りに動かすことです。予算を獲得する、自分の提案に承認を貰う、自分の評価を高くする等等、全て聞き手に変化をもたらすことが目的です。もし、予算がすでに確保されているなら、提案が承認済みなら、自分の評価が満足のゆくものなら、プレゼンテーションは必要ありません。プレゼンテーションは、足らない予算、未承認、低い評価を、あなたがひっくり返すために行うものです。
あなたの伝えたいことは、「これに予算を付けるべきだ。」、「この提案を実行に移すべきだ。」、「自分の評価を上げるべきだ。」というあなたの主張なのです。
これに気付くと、聞き手にとって、「この予算の必要性は、…」などという言葉による説明は言い訳に聞こえることが、分かると思います。話し方が具体的であったとしても、「言い訳」は言い訳に過ぎません。
あなたの主張を相手に飲み込ませるために必要なものは、何か?
それは、証拠です。
揺るぎなく、明白で、客観的な証拠です。説明ではありません。「揺るぎなく、明白で、客観的な証拠」は、「具体的な説明」ではないかという反論があるかもしれませんが、そうした反論には、「上手な説明」はあるが、「上手な証拠」はなく、あるのは「明白な証拠」であると言えば、違いを理解してもらえると思います。
非常に露骨に言えば、プレゼンテーションとは、
(主張)私は、あなたに○○をして欲しい、
(証拠)あなたが○○することの妥当性は、××の証拠から明らかだ、
と、聞き手に伝えることなのです。この本質を押さえ、聞き手に失礼にならない程度の表現ができていれば、少々武骨なでプレゼンテーションであっても、あなたの正当性は聞き手に認めてもらえるでしょう。自分の主張さえはっきりしていれば、資料を作るには、それほど時間は必要ありません。
もっとも、プレゼンテーションの準備に時間が掛かる理由の多くは、自分の主張がはっきりしていないことです。それ故、いくら守離破などのような定型のノウハウを取り入れても、一向に聞き手に響くものにならない場合が多いのです。
繰り返します。プレゼンテーションで何より大切なことは、あなたの主張なのです。
2013年2月3日日曜日
やがて上司になるあなたへ(14):マネージャのタイプ
管理職、マネージャといっても、いろんなタイプの人がいます。今回は、いくつかの類型を紹介します。
私の大まかな類型は、
・コメンテーター
・チェッカー
・コントローラー
・ライター
・コーディネーター
・ディレクター
の6つです。
コメンテーターは、部下の報告や世の中の動きを評論するだけの人です。人の上に立ったら部下に仕事をさせていればいいと考えており、自分の評論・蘊蓄、多くの場合どこかの本に書いてあるようなことなのですが、をたれていることを指導と勘違いしている上司がこのタイプです。意外と勉強家だったりしますが、勉強の成果がチームの仕事の改善に繋がらないのが特徴です。
チェッカーは、部下に仕事の計画や目標を立てさせて、仕事の進捗がその通りにいっているかどうかをチェックする人です。一見、部下に権限委譲をした上で業務管理をしている上司のように見えますが、実態は部下の言った事を確認・フォローしているだけなので、極端なことを言えば簡単なコンピュータプログラムでできる程度のことをしているだけです。仕事が順調なときには、非常によい上司に見えます。が、仕事が思うように進まないときに解決策を出せる訳でもなく、やたらと対策会議を開きたがるのが、このタイプです。細かい確認がすきなので、事務手続などには精通していたりします。
コントローラーは、チェッカーに近いですが、部下に仕事の目標は立てさせますが、仕事のやり方を自分で決める点が違います。日常の業務管理を積極的にしますので、一見やり手の上司に見えます。が、多くの場合特定の業務手順を墨守させるだけのことが多く、部下にとっては口出しの多い頭の痛い上司であることが多いタイプです。仕事が上手くゆかないときには、部下の仕事のやり方が悪いというのも困った特徴です。
ライターは、仕事の目標だけを立てる人です。上位方針に沿った目標を立てる事だけが自分の仕事で、その実現は部下の仕事と考えています。「戦略」という言葉が好きで、自分は戦略家であり、部下はオペレーションを担当する兵隊と考えています。上司受けするシナリオを語るのが上手い一方、目標達成の可能性の視点が抜け落ちているのが特徴です。自信家で部下を見下しているので、部下の進言を聞くことはまずありません。マネージメント本をよく読んでおり、仕事が行き詰まった際には、その蘊蓄を披露したがります。いい格好をするためにできもしない目標をでっち上げ、後始末をすべて部下に押し付けます。新規業務の立ち上げが大好きで、最初に目立つだけ目立って、ボロが出る前に逃げるのが典型的なやり口です。
コーディネーターは、仕事の目標を達成するために、必要な人・物・金を集め、それをくみ上げる人です。特に、仕事と人の対応付けに心を砕き、必要と有ればチーム外からの助力を得ます。人への気遣いが強いので、目標そのものへの執着が弱くなることがあります。仕事の目標が明確なときには非常に優れた上司となりますが、目標の立案の場合には人の意見に流されることがあります。
ディレクターは、上位方針に沿って仕事の目標と、現実的な達成計画の両方を立てる人です。当事者意識を部下と共有して、仕事を進める優れた上司です。ただ、目標を達成することを重要視するタイプなので、チームの大きさを目標に織り込んでしまい目標が低くなる場合があります。また、未来志向が強いので、日常の業務管理が甘くなる場合もあります。
6つの類型のいずれも完璧なマネージャではありません。私は、優れたマネージャは、
・ディレクター、コーディネーター、チェッカー
の能力をバランスよくもった人であり、困ったマネージャは、
・ライター、コントローラー、コメンテーター
の要素が強い人であると、思っています。このグループの違いは、一言で言うと、「上から目線(=当事者意識の欠如)」が入っているかどうかの違いです。
ちなみに、チェッカーだけの人も困った上司なのですが、人としては「いい人」である場合が多いようです。
ディレクターとして目標と計画を立て、コーディネータとして必要なリソースを集め、チェッカーとして日常の業務を確認してゆくという上司は、ほとんどスーパーマンに違いありません。スーパーマンでない私たちは、自分の得意な所と苦手な所を見極めて、苦手な部分は部下に補って貰えばいいと思います。そして、そのこと自体が部下の育成にもなるはずです。
私の大まかな類型は、
・コメンテーター
・チェッカー
・コントローラー
・ライター
・コーディネーター
・ディレクター
の6つです。
コメンテーターは、部下の報告や世の中の動きを評論するだけの人です。人の上に立ったら部下に仕事をさせていればいいと考えており、自分の評論・蘊蓄、多くの場合どこかの本に書いてあるようなことなのですが、をたれていることを指導と勘違いしている上司がこのタイプです。意外と勉強家だったりしますが、勉強の成果がチームの仕事の改善に繋がらないのが特徴です。
チェッカーは、部下に仕事の計画や目標を立てさせて、仕事の進捗がその通りにいっているかどうかをチェックする人です。一見、部下に権限委譲をした上で業務管理をしている上司のように見えますが、実態は部下の言った事を確認・フォローしているだけなので、極端なことを言えば簡単なコンピュータプログラムでできる程度のことをしているだけです。仕事が順調なときには、非常によい上司に見えます。が、仕事が思うように進まないときに解決策を出せる訳でもなく、やたらと対策会議を開きたがるのが、このタイプです。細かい確認がすきなので、事務手続などには精通していたりします。
コントローラーは、チェッカーに近いですが、部下に仕事の目標は立てさせますが、仕事のやり方を自分で決める点が違います。日常の業務管理を積極的にしますので、一見やり手の上司に見えます。が、多くの場合特定の業務手順を墨守させるだけのことが多く、部下にとっては口出しの多い頭の痛い上司であることが多いタイプです。仕事が上手くゆかないときには、部下の仕事のやり方が悪いというのも困った特徴です。
ライターは、仕事の目標だけを立てる人です。上位方針に沿った目標を立てる事だけが自分の仕事で、その実現は部下の仕事と考えています。「戦略」という言葉が好きで、自分は戦略家であり、部下はオペレーションを担当する兵隊と考えています。上司受けするシナリオを語るのが上手い一方、目標達成の可能性の視点が抜け落ちているのが特徴です。自信家で部下を見下しているので、部下の進言を聞くことはまずありません。マネージメント本をよく読んでおり、仕事が行き詰まった際には、その蘊蓄を披露したがります。いい格好をするためにできもしない目標をでっち上げ、後始末をすべて部下に押し付けます。新規業務の立ち上げが大好きで、最初に目立つだけ目立って、ボロが出る前に逃げるのが典型的なやり口です。
コーディネーターは、仕事の目標を達成するために、必要な人・物・金を集め、それをくみ上げる人です。特に、仕事と人の対応付けに心を砕き、必要と有ればチーム外からの助力を得ます。人への気遣いが強いので、目標そのものへの執着が弱くなることがあります。仕事の目標が明確なときには非常に優れた上司となりますが、目標の立案の場合には人の意見に流されることがあります。
ディレクターは、上位方針に沿って仕事の目標と、現実的な達成計画の両方を立てる人です。当事者意識を部下と共有して、仕事を進める優れた上司です。ただ、目標を達成することを重要視するタイプなので、チームの大きさを目標に織り込んでしまい目標が低くなる場合があります。また、未来志向が強いので、日常の業務管理が甘くなる場合もあります。
6つの類型のいずれも完璧なマネージャではありません。私は、優れたマネージャは、
・ディレクター、コーディネーター、チェッカー
の能力をバランスよくもった人であり、困ったマネージャは、
・ライター、コントローラー、コメンテーター
の要素が強い人であると、思っています。このグループの違いは、一言で言うと、「上から目線(=当事者意識の欠如)」が入っているかどうかの違いです。
ちなみに、チェッカーだけの人も困った上司なのですが、人としては「いい人」である場合が多いようです。
ディレクターとして目標と計画を立て、コーディネータとして必要なリソースを集め、チェッカーとして日常の業務を確認してゆくという上司は、ほとんどスーパーマンに違いありません。スーパーマンでない私たちは、自分の得意な所と苦手な所を見極めて、苦手な部分は部下に補って貰えばいいと思います。そして、そのこと自体が部下の育成にもなるはずです。
2013年2月2日土曜日
命の値段
「命の値段」を考えるきっかけになったのは、アフリカの医療支援をする際には薬を患者に渡してはいけないという話を読んだことです。患者に薬を渡せば、患者は薬を現金化してしまうというのです。現金給付でなく、医療支援を目的するのであれば、医師患者双方にとって面倒であっても、対面で薬を投与することが大切というのです。
報道で知る限り、アフリカは日本よりずっと死が身近な土地です。
その地において、命に直結するだろう治療薬が自分の病気の治療より現金化に使われることは、「命をお金に換える行為」と解釈できるのではないかと思ったのです。
一般的な治療に使われる薬の市場価格は、数千円です(日本国内では医療保険のために1/3から1/10の支払で済みます)。
一方、国連の調査によれば、サハラ以南のアフリカ諸国では、一日当りの生活費が一ドル以下の人口の割合が50%近い。多くの人の年収が3万円以下なのです。
最初に書いたことは、「薬に年収の1/10の値段がつくなら、人は自分の病気の治療よりお金を優先する」ケースが少なからずあるということです。
国税庁の調査によれば日本の世帯年収は、平均が約420万円であるので、上の論理をそのまま日本に適用すると、「薬に40万円の値段がつくなら、日本人は自分の病気の治療よりお金を優先する」となります。すべての日本人が薬を売るとは思わないですが、乱暴な推定なので係数5を掛ける、つまり5倍の値段(200万円)がつけば、どうでしょうか?自分のためではなく、家族のために「命をお金に換える行為」を選ぶ人がいることを想像することはできるような気がします。
命と命は交換できません。
死と生も交換できません。
それなのに、「命をお金に換える行為」が実際に行われている土地がある。その地では、方法を間違えると医療支援さえ、お金のバラマキになりかねない。そういう現実を「あり得ること」として理解するために、「命の値段」という非人道的なことを考えることも大切ではないかと、私は思います。
報道で知る限り、アフリカは日本よりずっと死が身近な土地です。
その地において、命に直結するだろう治療薬が自分の病気の治療より現金化に使われることは、「命をお金に換える行為」と解釈できるのではないかと思ったのです。
一般的な治療に使われる薬の市場価格は、数千円です(日本国内では医療保険のために1/3から1/10の支払で済みます)。
一方、国連の調査によれば、サハラ以南のアフリカ諸国では、一日当りの生活費が一ドル以下の人口の割合が50%近い。多くの人の年収が3万円以下なのです。
最初に書いたことは、「薬に年収の1/10の値段がつくなら、人は自分の病気の治療よりお金を優先する」ケースが少なからずあるということです。
国税庁の調査によれば日本の世帯年収は、平均が約420万円であるので、上の論理をそのまま日本に適用すると、「薬に40万円の値段がつくなら、日本人は自分の病気の治療よりお金を優先する」となります。すべての日本人が薬を売るとは思わないですが、乱暴な推定なので係数5を掛ける、つまり5倍の値段(200万円)がつけば、どうでしょうか?自分のためではなく、家族のために「命をお金に換える行為」を選ぶ人がいることを想像することはできるような気がします。
命と命は交換できません。
死と生も交換できません。
それなのに、「命をお金に換える行為」が実際に行われている土地がある。その地では、方法を間違えると医療支援さえ、お金のバラマキになりかねない。そういう現実を「あり得ること」として理解するために、「命の値段」という非人道的なことを考えることも大切ではないかと、私は思います。
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